11.島原へ


 有明海上より、天草を望む。

13:30

島原へ到着。
阿蘇と同じく、島原も小学生の時以来である。
うわ〜道が狭い!おまけに市内はバカ混み!
明らかに道の容量不足である。いまさら拡幅も出来ないんだろうな〜。
アーケードがあるのは知っていたので、適当に単車を止め飯屋を探す、
が見つからない。湧き水は冷たくてうまいのだが腹は膨れない・・・。

13:45

観光スポットへ行けば食いもんくらいあるだろうと思い、島原城へ。

城内の駐車場に単車を止め、食べたのは結局そうめんだった。でもうまかった。さすが島原。
城内にある天草四郎像と織田信長像(なんで?)は、長崎の平和祈念像の作者北村西望氏の作品。
どおりで同じ顔してるわけだ。地元の出身ということもあり、記念館も併設されている。

 例にもれず、天守閣が展示館になっている。早速中へ。

 記念撮影用の甲冑。結構まともなつくりだが、流石にこの炎天下に着込む人はいない。

まあ内容は島原の乱関係が多い。
江戸時代初期、島原の新領主になった松倉重政っておっさんが、
元々有馬さんが使ってた原城の代わりに建てたのが、今の島原城だそうです。
この松倉さん、築城の名手とかで張り切っちゃって、田舎の小領主(*)にしてはえらく豪華絢爛な城を作ろうとしたわけ。

*詳しい数字は忘れたが、確か5万石にも満たない規模である。

そうなると、こき使われて迷惑するのは地元の人で、工事のあまりの過酷さに死者続出するような有様。
で、まあ金も掛かるもんだから年貢も厳しくて、そりゃもう民衆の不満タラタラなわけですよ。
そんでまあ、もともとここいらの領主だった有馬さんってのが、
キリシタン大名のハシリ(ローマに少年使節を送った大名のうちの一人)で、
当然城下にもキリスト教が広まってたわけなんだけど、
松倉の重ちゃんは幕府の意向もあって、そりゃもう厳しく弾圧したらしい。

というより、重ちゃんは幕府からキリシタン弾圧の命を受けて奈良の五条からはるばるやってきたんだ。

城内には、竹の節に隠したマリア観音なんていう、大変涙ぐましい物も多数展示してあった。

そんな折、天草四郎時貞ってなカリスマの出現もあって、領民の不満は一気に爆発、
一時は完成したばかりの島原城も落とすかという勢いだったが、
さすが金と手間かかってる(というよりまさに血と汗と涙の結晶)だけあって、
蜂起軍は終に城を抜けなかった。
そこで、立てこもったのが既に廃城になっていた原城址。

でまあこの原城、「址」とはいっても長年有馬さん一家が根城にしていただけあって、
まさに天然の要害!

海から攻めようにも断崖が高すぎて、幕府が依頼した外国船の大砲すら届かないほど。
そのうち、船も馬鹿馬鹿しくなって帰っちゃうし、攻め手の総大将は討ち死にしちゃうし、
幕府の面目は丸つぶれ。それでもなんとか物量にものを言わせて包囲をつづけ、
やっとこさ落城させたってのは割と有名な話。

 島原城天守閣対岸の熊本城にも負けてない。

ま、歴史談義は置いといて、てっぺんまで登ると展望台になってるんだが、
これがまたいい眺め!城下はおろか対岸の阿蘇山まで見渡せる。
確かに殿様気分を満喫できるだろうけど、
ここから、大挙して押し寄せる一揆軍を見下ろすと、きっと生きた心地がしないだろう。

 堀だって立派。確かに田舎の小城って感じじゃないね。

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